垂柳遺跡

世紀の大発見!

田んぼアートで有名な南津軽郡田舎館(いなかだて)村に垂柳(たれやなぎ)遺跡はあります。
垂柳遺跡は弥生時代中期の遺跡で国の史跡です。

1981年、国道102号線にバイパスが作られることになり調査が行われました。
すると弥生時代中期の水田跡が10面出土したのです。
その後本調査が行われ、約4000㎡に656面もの水田跡が発見されました。
あぜ道や水路なども見つかりました。
当時の水田は現在のそれに比べると小さく、最大で22㎡、最少で1㎡、平均8㎡程度の大きさです。

それまでは弥生時代に東北地方で稲作は行われていないと思われていたので、この発見は常識を覆す世紀の大発見となりました。

悲劇は突然に

弥生時代中期、それまで普通に行われていた稲作が、ある時期を境に突然消えてしまいまいした。
垂柳遺跡の北側には浅瀬石川が流れているのですが、川の氾濫で田んぼが埋まってしまったのです。
発掘した田んぼは十和田火山の火山灰が堆積(たいせき)した地層から出土しました。

弥生人が頑張って開いた田んぼが一瞬にして土の底へと埋まってしまい、その後稲作が行われることはありませんでした。
再び稲作が行われるようになったのは800~900年後の平安時代でした。
皮肉なことに火山灰の土で覆われてしまったことで、遺跡の保存状態はよく、1586個の弥生人の足跡も見つかっています。

稲作の北限論争と伊東信雄氏

「日本書紀」斉明天皇5年(657)7月条に、遣唐使と唐の皇帝「高宗」とのやりとりで、蝦夷(えみし)の土地には「五穀」が無く、肉を食べていると書かれています。
このため、東北北部で稲作が行われたのはもっと後の鎌倉~室町時代になってからだと思われておりました・・・

かつて東北大学に伊東信雄という考古学者がおりました。

1956年(昭和31年)、田舎館村で耕地整理が行われた際に多くの土器が出てきました。その中に籾(もみ)の圧痕(あっこん)があると、地元の教師の工藤正氏が発見しました。
それを郷土史家の成田末五郎氏へ伝えると、伊東氏を紹介されました。
連絡をすると炭化米があるかもしれないということで、
丹念に調べあげた結果、炭化米が発見されました。

その結果を受けて伊東氏は1958年(昭和33年)に発掘調査を行い、土器や炭化米、磨製石斧、石鏃などが出土しました。
伊東氏は出土した土器を田舎舘式土器と名づけました。
この出土品によって伊東氏は、弥生時代に津軽でも稲作が行われていたと確信に至りました。

後にこう記しています。
「これで田舎館出土の土器が弥生式土器であり、その時代に津軽平野で米が作られていたことが完全に証明された訳である。これは青森県農業史上の大きな事実であるばかりでなく、日本考古学史上の重大な発見である。わたしとしては30年前に自分のたてた仮説を自分の手で実証することができた訳で、まさに会心の発掘であった」

しかし、当時の学界や学者は田舎館式土器が弥生式土器であることや、弥生時代に青森県で稲作が行われていたことを認めませんでした。
その理由としては水田本体や、稲作に使われていたであろう石包丁や大陸系の磨製石器が出てきていないこと。
土器の模様が縄文的で西日本のようなものではなかったこと。
炭化米は交易によって他の地域から来たもので、ここで作られたのでは無い可能性がある、などです。

司馬遼太郎氏は「街道をゆく 北のまほろば」の中でこのことを「ともかくも、証拠が小粒すぎるのである」と書いています。

その後も色々とアピールするのですが、決定的な証拠がないままでした。

時は過ぎ、1981年(昭和56年)、国道バイパス工事による調査で水田跡が発見され、ついに伊東説が証明されたのでした。

伊東氏はこう述べています。
「私は自分の唱えた学説が間違いでなかったことが垂柳水田の発掘によって証明されたのを喜ぶと共に、なぜ青森県のような気候冷涼な地に稲作が可能であったのか、垂柳水田によって代表される東北北部稲作農耕がどのようにして始まったのか、またそれがどのように変化して今日に至ったのかについて、今後も自然科学者を含めた同士とともに研究を進めて行く必要がある」

その後1986年(昭和61年)に砂沢遺跡が発見され、稲作が始まった時代はさらに200年ほど古く、北限もさらに北へと押し上げられたのでした。

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