金印・邪馬台国

当時の中国は日本のことを『倭』(わ)と呼んでいました。
現代の津軽では自分のことを「わ」と呼びます。

金印

現在の福岡市付近に「奴国(なこく)」というクニがありました。
紀元57年に後漢の皇帝、光武帝から「漢委奴国王」と印された「金印」を受けました。
「漢の委の奴の国王(かんのわのなのこくおう)」と読みます。
『漢』の地方に過ぎない『倭』、そのさらに地方の『奴』というクニの王という意味です。
ちなみに現代の津軽ではあなたのことを「な」と呼びます。

このことは後漢について書かれた歴史の本「後漢書」の「東夷伝」に書かれています。

『東夷』とは

古代の中国では東西南北、それぞれの方角に住んでいる異民族に対して
「東夷(とうい)」
「西戎(せいじゅう)」
「南蛮(なんばん)」
「北狄(ほくてき)」
と差別して呼んでいました。

ちなみに後の日本にもこの考え方が伝わります。
京都の人は東側の人々を都から遠く離れた野蛮な人間だと考えていました。
夷を訓読みして「えみし」「えびす」、特に東国の武士のことは荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人という意味を込めて「あずまえびす」と呼んでいた。

そして後に坂上田村麻呂が東北に攻めてきます。

邪馬台国(やまたいこく)

2世紀後半、倭国全体でクニとクニが争う「倭国大乱」が起こりました。
この争乱は長く続きなかなか終わりませんでした。

この事態を解決するために「邪馬台国」の「卑弥呼(ひみこ)」がリーダーに選ばれます。
卑弥呼はシャーマンで、独身のおばさんでした。

まじないを使って農作業をいつから始めるかなどを決めていたのです。
当時は精霊信仰があって豊作を願う祭りや儀式が普通に行われていました。
そこで銅鐸(どうたく)や銅剣(どうけん)など青銅の祭器が使われていたのです。
そんなスーパーウーマンな卑弥呼でしたが、247年に狗奴国(くなこく)との争いでに亡くなっていまいました。

その後男性が王になったのですが再び争乱が起こってしまい、卑弥呼の親戚の「台与」がリーダーになってようやく収まりました。

その後266年から413年まで倭国については中国の歴史書に書かれてないので、何が起きたのかわからない謎の150年間なのです。

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