弥生時代の青森県民

稲作

縄文時代晩期に九州で始まった稲作が、日本海側を伝って弥生時代前期には青森県でも行われるようになりました。
前期の水田跡が岩木山のふもと、弘前市の砂沢(すなざわ)遺跡で見つかっています。
これは東日本で最も早い水田跡です。

そして中期には津軽平野でも稲作が行われていました。
中期の水田跡は田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡で見つかっています。

ちなみに関東で最も早いのは小田原市にある中里遺跡で、中期の水田跡が見つかっています。

青森県では関東よりも先に稲作が行われていました。
秋田県や山形県でも遠賀川式土器が多く見つかっていることから日本海側を伝っていったと考えられ、前期には青森県まで弥生文化が伝わっていました。

集落

青森県で弥生時代の集落の規模がわかっているものとしては以下の遺跡があげられます。

八戸市の風張(かざはり)遺跡、牛ヶ沢(うしがさわ)遺跡、田面木平(たものきたい)遺跡。
旧南郷村の畑内(はたない)遺跡
六ヶ所村の大石平(おおいしたい)遺跡。

この中で最も規模が大きいのが八戸市の風張遺跡です。
全部で22軒の竪穴住居の跡が見つかっています。
時代によって住居跡の数が違うのですが、一番多い前期後葉では、4000㎡の範囲の中で、集会所と思われる30メートルくらいの広場を中心に、6~8軒程度の家が建っていたようです。

【中期以降では】
中期以降になると住居跡は少なくなってしまいます。

中期後葉は
大石平遺跡が7軒
旧福地村の西山(にしやま)遺跡が3軒
東通村の瀧之不動明(たきのふどうみょう)遺跡が4軒

旧南郷村の畑内遺跡から中期~後期が7軒

六ヶ所村の上尾駮(かみおぶち)遺跡から後期のものが3軒
これだけです。
環境が変わって人口が減ってしまったのかもしれません。

なかには旧三厩村の宇鉄(うてつ)遺跡や旧川内町の板子塚遺跡のように中期の墓が見つかっているにもかかわらず、住居の跡が見つかっていない遺跡もあります。

【地蔵田遺跡】
ちなみに、お隣の秋田県秋田市の地蔵田(じぞうでん)遺跡では、弥生時代前期の集落跡が見つかっています。
世にも珍しい木の柵で囲まれた集落で、国の史跡です。
この集落は20メートルくらいの広場を中心に3~4軒の竪穴住居が建っていて、
その周りを楕円形に木の柵で囲っていました。
全長は約170メートルです。
柵の外側にはお墓がありました。

土器

青森県では前期~後期までの弥生土器が見つかっています。

【前期中葉】
青森県で最初の弥生土器は亀ヶ岡系と遠賀川系を組み合わせたような形式の砂沢式土器です。
砂沢式土器は砂沢遺跡から出土した土器から名付けられました。
砂沢式土器は青森県だけでなく、日本海側では山形県北部まで、太平洋側では岩手県北部まで広がっていました。

【前期後葉~中期中葉】
前期後葉~中期中葉にかけては地域ごとに違うタイプの土器を使っていました。
津軽海峡を挟んで津軽半島、下北半島、北海道南部では二枚橋式~宇鉄Ⅱ式を使っていて、同じ文化圏だったようです。
津軽平野では五所式~井沢式~田舎館式。
南部では岩手県方面からの影響を受けて馬場野Ⅱ式~大石平Ⅵ式とそれぞれでした。
<二枚橋式が時代を経て進化し宇鉄Ⅱ式になっていったという意味です>

【中期後葉~後期前葉】
次第に地域間の違いは見られなくなって、中期後葉~後期前葉には、念仏間式~家ノ前式が青森県の各地で見られるようになります。
この念仏間式の特徴が天王山式に受け継がれて、東北各地や北海道に広がっていきました。

【後期中葉~後期後葉】
後期中葉~後期後葉になると北海道の続縄文土器である後北式(こうほくしき)の影響を強く受けるようになります。
後北式のC1式は青森県だけではなく、新潟県にまで及んでいます。

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