立佞武多アレコレ

立佞武多アレコレ

歴史

1993年に一枚の写真が見つかりました。そこに写っていたものは、明治40年代(1910年頃)に作られた超大型のねぷたでした。高さは15間で(約27メートル)、7階建てのビルに相当する高さです。

当時、五所川原市には「布嘉(ぬのか)」と呼ばれる青森県一の豪商がおりました。一代で巨万の富を築き、貴族院議員まで務めた佐々木嘉太郎氏。その邸宅は布嘉御殿と呼ばれ、太宰治の生家である斜陽館と同じ棟梁、堀江佐吉氏によって建てられました。布嘉御殿は明治29年(1896年)、斜陽館は明治40年(1907年)に完成しましたが、佐々木氏が斜陽館を見た時に「なんだ、小さいな」と言ったとか言わないとか。

そんな布嘉に代表される豪商や地主が競い合い、ねぷたは大型化していきました。しかしながら、街の近代化により電線が張り巡らされ、ねぷたは縮小せざるを得なくなってしまいました。

また、五所川原市では戦後に2度の大火があり、街が全焼したことで写真や設計図が失われてしまいました。こうして超大型ねぷたは姿を消し、人々の記憶からも消えていったのです。

今では見ることができないほど超大型のねぷたを80年前の人達が作っていた。その姿を見た市民有志達は復元させることを決めました。写真だけではなく設計図も一緒に見つかっていたのです。そして1996年、岩木川の河川敷に高さ約20メートル、重さ約7トンの超大型ねぷたが作られ「立佞武多」と命名されました。

今では、立佞武多の館を中心にした街づくりが行われるようになりました。かつて、電線のために縮小を余儀なくされた立佞武多でしたが、現代では立佞武多のために電線を地中化し、スムーズな運行ができるようになりました。

明治時代の立佞武多
発見された写真
1996年に再現した立佞武多

五所川原の大太鼓

五所川原市の大太鼓と言えば「あすなろ大太鼓」と、2010年からは「忠孝太鼓」も祭りを彩っています。三上忠孝さんの寄付により作られたので「忠孝太鼓」と名づけられました。

あすなろ大太鼓は直径3.2m、全長3.6m、重さ1.7トンあります。

忠孝太鼓は、立佞武多に合わせた高いデザインで、直径2.4mの大太鼓を2台縦に組み、その上には組ねぷたが据え付けられています。高さは4~5階建てビルに相当する17mで、重さは18トンあります。

手前があすなろ大太鼓。奥が忠孝太鼓

「喧嘩ねぷた」で「ヤッテマレ!」

掛け声は「ヤッテマレ、ヤッテマレ」。津軽弁で「やってしまえ!」という意味です。

ねぶた祭りやねぷた祭りは地域のお祭り。県内のねぶた・ねぷたは合同で運行することが多くなりましたが、かつては町内ごとにバラバラで運行していました。道でかち合うことも少なくありません。出会ったらバトル開始です!

ねぷたにケンカはつきもの。

明治から昭和初期までは死者がでるほど激しくケンカしていました。ケンカというよりも闘争、抗争と言った方がしっくりくるほど激しかったようです。弘前ねぷた祭りでは今でも「石打無用」と書かれていることがありますが、相手のねぷたに石を投げて壊していました。

西北五地域では他の地域に比べて気質が荒い人が多いと言われます。五所川原のねぷたはその激しさから「喧嘩ねぷた」と呼ばれていました。「ヤッテマレ!」はケンカの掛け声からきています。

立佞武多の参加者

牡丹と漢雲

立佞武多でも弘前ねぷた祭りと同様に、台座には牡丹の花と「漢雲」が描かれます。牡丹の花とは弘前藩主津軽家の家紋である「杏葉牡丹」に由来しています。

また「漢雲」は右から読むため、正しくは「雲漢」です。「天の川」という意味で、ねぷた祭りは七夕祭りが起源となっていることに由来しています。

立佞武多にもボタンが描かれる

運行

立佞武多の館からスタートし、市内を1周してまた立佞武多の館に戻るコースです。

2022年はコロナ対策のため、順番に出ていく「吹き流し方式」ではなく、それぞれのスタート地点から始めて決められたコースをグルグル回る「一斉スタート方式」です。

先頭は忠孝太鼓で、各運行団体ごとに踊り手や囃子方、小型のねぷた、中型の立佞武多と続き、後半に三台の大型立佞武多という流れです。祭りの初日や最終日には吉幾三さんも歌で盛り上げてくれます。運行するのは有志団体や町内会、企業、五所川原高校、五所川原農林高校などがあり、14団体で運行団体協議会を構成しています。

ロータリーで熱唱する吉幾三さん